アニメな半生記 → アニメーターを目指し

3・アニメーターを目指して

 浪人時代は津田を筆頭に、浪人した友人たちと一緒に図書館で勉強することになった。しかし、時間がたっぷりあったこともあり、ふと気が付くと絵を描いている始末で、アニメーターになりたいという思いは、次第に抑えがたいものになっていったのである。

 昼食代として毎日二百円を母親から貰うのだが食事はせずに全て貯めこみ、アニドウのイベントにはほとんど足を運んだ。フランスのアニメを語る上で絶対にはずせない、ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君(王様と鳥)』や、イギリスのアニメを語る上で必ず押さえておくべき、ジョン・ハラスの『動物農場』、さらに高畑勲監督の若き日の名作『パンダコパンダ』などはこの時期に観た。

 アニメにのめり込む一方で、依然、英語の先生になりたい、という思いもあった。そのような葛藤の中で「入試に通ればアニメは趣味にしよう。でも通らなかったらアニメーターを目指そう」という結論を自分の中で固めた頃、受験のシーズンを迎えた。私は再び全ての大学に落ち、津田は名門H大学に受かった。悔しい思いは確かにあったが、もうひとつの心が「やったあ!」と叫んでいた。「これでアニメーターを目指せる」と思っていたのである。

すでに私は某アニメ専門学校の案内書を持っていた。そしてそれを手にして、両親に「アニメの学校に行かせて下さい」とお願いした。いろいろ言われるだろうけれども、最終的にはしぶしぶ認めてくれるに違いないという私の予想は完璧にはずれてしまった。父も母も猛反対で、全く聞く耳すら持ってくれなかったのだ。

「ばかもん! 絵なんか描いて喰っていけるほど世の中は甘くないんだ。おまえは現実というものを全く分かってない。うちにはおまえを二浪させる余裕はない。就職の時期は逸してしまったから暫くアルバイトでもしながら、ちゃんとした就職先をさがすといい」と言うのだ。

その晩は、悔し涙で枕を泣き濡らした。

 アニメーターになりたいという思いを胸に秘め、私はさっそくアルバイトを始めることになった。IBM藤沢工場で、オペレーターのアシスタントをする仕事だった。打ち出されたデータの束や荷物を台車で運搬したり、定期的にコンピュータのヘッドをクリーニングするという単純な仕事だったが三交代制勤務だったこともあり、毎月十六万〜十八万円のお給料を頂くことができた。当時としてはとてもいい額だと言える。親からは、特に家に入れろとも言われなかったので貯金も貯まっていった。それと同時に私の中で、ある野望がムクムクと芽生えていったのだ。

 六月に新宿のヨドバシカメラに行き、貯まったお金で、八ミリカメラと八ミリ編集機、そして八ミリ映写機を購入した。そして、それまでに描きためていた百枚ほどの動画を撮影し、ついに自分のアニメを一本作ったのである。  

タイトルは『ナコちゃんが行く』。女の子が歩いたり走ったりする単純な作品だったが、自分の絵が動いた喜びは大きく、「よーし、絶対にアニメーターになってやるぞ」と堅く心に誓った。

更にアルバイトを続け、上京(自立)資金を貯めながらチャンスを待った。八月のある日、新聞の募集欄でグループジョイという会社の求人広告を目にした。そこにはアニメーションの仕上げスタッフを募集すると書いてあったのである。

私は、アニメーターにはすぐになれなくても、セル仕上げなら通信教育で技術認定証(右写真)を得ていたので大丈夫だろうと思い、さっそく電話してみた。すぐに面接ということになり、私は自分で仕上げた数枚のセル画(下写真)を持って、杉並区荻窪のグループジョイを訪ねた。

社長のAさんは、鼻の下に髭を蓄えた三十三才のオシャレな紳士だった。持参したセル画は「よくできている」と誉めてもらい、すぐに採用を決めてくれた。両親には全てが決まってから報告したが、あきれたのか諦めたのか、すんなりとアニメの会社に就職することを認めてくれた。そして八月いっぱいでアルバイトのけじめをつけ、私は十九才の夏、一九七七年九月から、アニメ人生のスタートを切る事になったのだ。

最初の一ヶ月は神奈川の家からグループジョイに通ったが、自立の資金も貯まっていたので会社の近くにアパートを借り、十月からは一人暮らしを始めた。

夢と希望に溢れての自立だったが、さすがに幼い弟達と別れるのは辛いものがあった。実家を出てバスで出発した時に、九才と七才の弟たちがいつまでも精一杯走ってバスを追いかけてきてくれた光景は、未だに思い出すだけでジーンとする。

 私が自立の第一歩を踏み出したのは、昭和時代の遺物とも言える畳間。もちろん風呂などく、トイレは共同使用の古くて汚いアパートだった。

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