アニメな半生記 → アニメーターを目指して編

十九才だった私は、グループジョイの歓迎会で初めてのビールを飲んだ。そして社長のお誘いで初めてカラオケにも行った。初めて歌った歌は、加山雄三の「君といつまでも」だったが、うまく歌えなかった。会社の忘年会のあと、初めてディスコに行って踊った。三畳のアパートでは赤玉ハニーワインを飲みながら、質屋で買ったラジカセでカーペンターズを聞いた。

お風呂は当然ないので、二、三日に一度、銭湯に通った。

風呂上がりには二百五十円のラーメンと二百五十円の餃子、合わせて五百円の夕食をとるのが楽しみだった。週に一度の贅沢は近所の定食屋でカキフライ定食を食べることだった。色んなことが初めての刺激的な日々の中で、私は夜、黙々と動画を描いていた。アニドウ主催の「プライベートアニメーションフェスティバル」、通称「PAF」に出品をするためである。

 PAFは年に一度開催されていた自主制作アニメの上映会だ。その前年のPAFを見に行った時、私は「よーし、次回は必ず自分も出品するぞ!」と思い立ち、その決意を実現すべく、ストーリーを考え、絵コンテもどきを切って、まるで何かに取り憑かれたかのようにアニメ制作に没頭していた。それがインスタントラーメンをすすりながらの毎日であろうと、そこが三畳の狭くて汚いアパートであろうと、私は幸せだった。大好きなアニメを作っている喜びと、アニメーターへの道を着実に歩んでいるんだ、との実感が私の脳をベータエンドルフィンで満たしていたのだと思う。

 アニメのタイトルは『白い箱』。その内容はたわいのないものだった。少年の吹いたシャボン玉がメタモルフォーゼ(変形)して白い箱になり宙を飛んでいく。それを少年が追いかけるというドタバタアニメだ。手法は一部にセルを使ったペーパーアニメだったが、数百枚の動画すべてに色鉛筆で色を塗った。8ミリカメラで撮影し冨田勲作曲のシンセサイザー音楽を入れ、完成させたのは締め切りギリギリの日だった。

 PAFの当日、上映された作品群は熱の入った力作ばかりだった。私の『白い箱』はその中にあって目立つものではなかったが、大勢の人たちに大スクリーンで見てもらえたことは嬉しいことだった。この年のPAFには大学に行った友人、津田も『HAKUMA』という作品を出品していた。白い悪魔を主人公にしたシュールな作品で、槍を投げる動きなどはとても良くできていた。進学したとはいえ、アニメに対する情熱はいささかも変わることなく、結局彼は大学卒業後、サンリオフィルムにアニメーターとして就職することになるのである。

さて、津田の『HAKUMA』と、女性の作ったもう一本の作品が、取材に来ていた日本テレビのスタッフの目にとまり、なんと『11PM』で紹介されることになった。若者の作る自主アニメの特集コーナーに津田本人も出演し、自ら作品紹介などをしたのだが、この時に出演したもう一人の女性は、後に数々のジブリ作品で秀逸な原画を描くことになる二木真希子さんだったのだ。

彼女の作品はフィルムに直接キズをつけながら描いていくカリグラフという手法だった。よほどのアニメーション感覚を持っていないと成功しないものなのだが動きも良く、とても幻想的なアニメに仕上がっていた。

当日のゲストは、後に私のアニメーションの師匠となるアニメ作家、月岡貞夫氏だった。私も津田も月岡氏の『アニメーション』という本でアニメを学んできただけに、大変興奮したものである。

これまで見えなかった運命の糸が蜘蛛の糸のようにうっすらではあるけれども、間違いなく存在するものとして、かすかに見え始めてきたのだ。

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6・PAFにチャレンジ