アニメな将来

アニメ産業の現状と将来

日本のアニメ産業は今や世界をマーケットにしたビッグビジネスに成長している。しかし、アニメを制作している現場の実状には労働環境的にかなり厳しいものがある。近年、行政側からの支援も活発に行われるようになったが、その恩恵が末端のクリエーターに届いているとは思えない。

「日本が世界に誇れる文化の一つである」とまで言われるようになったアニメーション。その影の部分に迫りたいと思う。

 

アニメーションは多面体

 アニメーションを論じようとする時、その視点の置き所によってアニメーションは様々な側面を見せてくれる。
 何故ならば、アニメーションは産業であるとともに文化であり、娯楽であるとともに、芸術たり得るものでもあるからだ。また映像であるとともにドラマでもあり、マンガでもある。更にその魅力はストーリーやキャラクターだけでなく、背景の美しさや音楽の素晴らしさ、演出的な上手さやCG技術のすごさ等々、まるでダイヤモンドのように、多様に輝くカット面を私たちに見せてくれるのだ。

 私は十五年間アニメーターとして現場の第一線で仕事をしてきた。その後、アニメの専門学校で十三年間講師を続けてきた。アニメ制作の現場、そしてアニメ教育の現場と、その内容は違えども、アニメとはダイレクトに関わり続けてきた半生である。

 アニメの仕事のまっただ中に居続けた者の常として全体像を俯瞰し客観的に論ずることは出来ないかもしれない。そのような分析は専門家にお任せするとして、私はアニメ産業の中で二つの側面を体験してきた立場から、この最終章で、主にアニメーターの視点に立ってアニメ業界の現状と将来を論じてみたいと思う。

 

動画マンの収入

アニメーターは、すでに述べてきたように原画を描く原画マンと動画を描く動画マンに分かれている。アニメーターとして就職する場合、先ず動画マンとしてスタートを切ることになる。会社によっては固定給のところもあるが、たいていの会社は歩合制で、一枚につき百五十円から二百円の単価で収入を得ることになる。

驚くべき事にこの単価は、私が動画マンになった四半世紀前とほとんど変わっていないのだ。物価は確実に上昇しているので昔の方が良かったと言えるかもしれない。

新人の頃は一日に十枚描くのが精一杯なので一ヶ月の収入が数万円以下ということにもなりかねず、一人暮らしの場合は当面、貯金を切り崩すか、親等からの援助がなければ生活していけないというのが現実だ。事実、一年以内に半数以上の動画マンが辞めていってしまうのだ。

 

原画マンの収入

 動画マンは、やがて上手いという評価を得られると原画マンに抜擢される。会社によっては原画マン登用試験を行うところもある。会社によってハードルの高さはまちまちだが、原画マンになれるかどうか、ここが就職後に訪れる第一の関門と言えるだろう。

原画マンは、真っ白い紙にゼロから絵を描きアクションを作っていく仕事なので、その難しさは動画マンの作業をはるかに凌ぐことはすでに述べてきた通りだ。それだけにやりがいもあり、大変さの中に仕事の面白さが見えてくる。
(右写真は現場で活躍する教え子)

原画マンは、実写の映画やドラマで言えば俳優に相当する仕事といえるだろう。名優が人々の心に残る印象的な演技をするように、優れた原画マンは演出家の意図を超えるような演技やアクションを作り上げ、作品のレベルを上げていくのだ。

更に言えば、原画マンには俳優以上に大変な事が沢山ある。俳優であれば自分に与えられた役の役作りに専念すればいいのだが、原画マンの場合、一般的には絵コンテのここからここまで、というように幾つかのシーンを担当することになるので、その中に登場する全てのキャラクターの役作りをしなければならないのだ。しかもキャラクターだけとは限らない。担当シーンに登場してくる「動くもの全て」、つまり乗り物やロボット等のメカ、火や煙や水等の自然現象、動物や虫や宇宙人等の生物を描き、動かしていかなければならないのだ。

 原画マンの収入もほとんどが歩合制だが動画マンのような枚数ではなく、カット単位での単価になる。テレビシリーズの場合、一カットにつき三千円から千円くらい支払われるのが一般的だ。

一ヶ月に原画を百カット以上描けるようになるには年月が必要なので、原画マンになれたからといって急に収入が上がるわけではない。逆に不慣れな作業に手が進まず、動画マン時代より収入が減ってしまうというケースもあるのだ。原画マンとして少なくとも数十カット以上の安定した仕事量をこなしていけるようになれば第二の関門を越えたことになるだろう。

せっかく原画マンになってもその域に至らず、志半ばに業界を去っていく人は少なからずいるのだ。どんなに絵が上手くても早く描けないばかりにドロップアウトしていった人たちを私は何人も見てきた。

参考資料として映画演劇関連産業労組共闘会議が二〇〇四一一一〇日、社団法人日本民間放送連盟に提出した「要望書」を紹介しよう。私としても最低限、このくらいは実現してもらいたいと思うラインである。

 

「テレビアニメーション制作に関する要望」

・放送局は、テレビアニメ番組の制作現場から労働基準法違反をなくすよう努力をすること。
・放送局は、私たちが提案する「テレビアニメ制作の雇用基準」に賛同すること。
・放送局は、
項と項の目的を達成するために、テレビアニメシリーズ30分の製作費を、一本2300万円以上にすること。
・放送局は、アニメ番組の制作発注を放送開始日の8ヶ月前にすること。

(以下略)

そして上記の「テレビアニメ制作の雇用基準」に、組合の要求額が示されている。
1 賃金について
(
) 新人アニメーターの最低(保障)賃金
  (時間額710円×8時間)×22日=月額
124960
   
710円は、東京都の「地域最低賃金」
   
人材育成には月額保障が欠かせません。

(
) アニメーターのモデル賃金
  原画モデル 1カット
3500円×月40カット+月保障万円=月額210000
  動画モデル 動画一枚
250円×月450枚+月保障万円=月額162500
 
モデルは、アニメ業界で圧倒的多数の出来高制賃金を前提としています。
 
モデルの「出来高賃金+月額固定給」方式は、労働基準法27条の「出来高払制その他の請負
  制度で使用する労働者については、使用者は、労働時間に応じ一定額の賃金の保障をしなければならない」にもとづいています。

 

深刻な空洞化現象

このような「原画倒れ」の現象は、あまりにも早く動画マンを原画マンに抜擢してしまいがちな業界の事情にも責任の一端はあると思う。本来ならば三年くらいじっくりと動画の仕事に取り組ませ、どんな動画でもこなせるだけの実力がついたところで原画マンに昇格させるべきなのだ。

一部の会社ではそのようにしているところもあるのだが、昨今は多くの会社で、そこそこに描けるようになったらすぐに原画マンにしてしまうという傾向が顕著になってきている。  

その理由は、会社にとって一枚いくらで仕事をする動画マンはあまり会社に利益をもたらしてくれないからだ。更に近年、動画の仕事は近隣のアジア諸国に発注することが多くなっており国内のアニメスタジオはますます原画スタジオ化してきている。このことはアニメ業界の中でも深刻な問題になってきているのである。

原画マンというのは動画マンの経験を積んだ者がステップアップしてなるものなのだが、その動画マンの仕事がどんどん海外に流れてしまったらどうなるだろう。日本に原画マンの卵ともいえる動画マンがいなくなってしまうということになる。ということは原画マンが育たないということだから業界の構造そのものが崩壊してしまいかねないのだ。

それでも動画の仕事はどんどん海外に流れている。今のように制作本数が多い状態ならまだ国内の動画マンにも仕事が回るが、今後仕事が減った場合、企業の論理としては国内スタッフよりコストの安い海外スタッフを使っていくだろうから会社としては経験の浅い動画マンでも、どんどん原画マンにしてしまうことになる。国内における技術の継承が途絶えてしまうという、いわゆる空洞化現象が今まさに起こりつつあるのだ。

 

将来への不安

 別な観点から、アニメーターを辞めていく人たちの気持ちになって考えてみたいと思う。

 若い頃は自分の好きなことだけやっていても許されるが、二十代半ばを過ぎるあたりから人は社会的な存在として、しっかりとした基盤を求めるようになる。

 先ず、結婚を意識するし、親も年をとってくる。扶養されていた立場から扶養する側、援助する側への転換が徐々に起こってくるのだ。例え原画マンとして安定した仕事を取れるようになっていたとしても、将来のことを考えた時、アニメーターという何の保障もない不安定で過酷な仕事を続けていく事に多くの原画マンは不安を感じるようになる。特に扶養家族を持った人であればなおさらだ。そのような思いから泣く泣く現場を去っていくアニメーターを誰が責められるだろうか。

 アニメの世界に限らず、世の中のほとんどの組織はピラミッド構造になっている。全ての動画マンが原画マンになれるはずはもとよりないし、全ての原画マンがそのリーディングポジションである作画監督になれる訳はない。例えなれなくても生活していければいいのだが、動画マンの仕事ではどんなに頑張っても二十万円が限度だろうから家庭を持って子供を育てていく事は無理に近いものがある。原画マンも油が乗っている時期はいいのだが、年配になれば絵を描くスピードも落ちるし、体の無理もきかなくなるため、歩合制では収入が落ちてしまう。子供に一番お金がかかる時期にそうなってしまうのではという不安はついて回る。

 アメリカのアニメーターは日本のアニメーターの倍もの収入を得ていると言う話を聞いた事がある。「アニメーションは日本が世界に誇れる文化のひとつである」と言うからには、そのくらい貰っても罰は当たらないだろう。

 アニメビジネスは世界をマーケットにして今後ますます盛んになっていく様相を呈している。そこでは莫大なお金が動くが、富を得るのは大企業と決まっている。制作に携わる末端のクリエーターには回ってこないのだ。アニメ業界はかろうじて版権を確保することで生き残っているが、まさに「生かさず、殺さず」といった扱いを受けているのである。

 

諸悪の根源は制作費の安さ

 そもそも、テレビシリーズの制作費が安すぎる、という事は「鉄腕アトム」の昔から言い古され、指摘されてきたことですが、この額が上がり、適正な分配が見直されない限りはどうしようもないだろう。

手塚治虫氏が「鉄腕アトム」を作った時に、どこにも追随されないよう、五十五万円という異常に安い制作費をテレビ局に提示したという伝説的、神話的なエピソードは業界内では今も語り継がれている。ただし、これをもって「低賃金、加重労働の根源は手塚氏にあり」と批判するのは間違いである。それは単に、その後の制作現場を改善していけなかった人たちの言い訳に過ぎない。すでにあれから四十年も経っているのだ。

 現在、三十分番組の制作費は一千万円弱と言われているが、これはバラエティー番組ならば二本は作れてしまう額だそうだ。それだけアニメ制作には人件費と時間がかかるのである。

 極論的に言わせてもらうと、実写であればカメラを十秒回せば、十秒の映像が出来るが、アニメの場合はたった十秒の映像を作る為に丸一日かかってしまうこともあるのだ。テレビでは毎週放送されているので一週間で一本作られていると思われがちなのだが、アニメの場合一本作るのに実際には二、三ヶ月はかかっているのだ。

 アニメはそれだけ手間のかかる仕事であり、常に締め切りに追われているため、スタッフは慢性的に過重労働を強いられている。テレビの番組に穴を開けることは絶対に許されないので、締め切りが近づけば家に帰れない日々が続くこともある。

 アニメーターが動画机に向かい続けるのは締め切りのせいもあるが、少しでも仕事量を増やして収入を上げるためでもある。しかし、その努力の報われ方が世間一般の水準を下回っていることは確かなのだ。

 

テレビシリーズの制作は暴挙

 世界に子供がいる限り、アニメがなくなることはないだろう。

 日本では三十分のテレビシリーズが毎週、多数放送されており、我々は当たり前のように思ってしまっているのだが、世界の常識から見ればこれは暴挙に等しいことなのだ。このことはあまり知られていない。

 現在、世界でテレビシリーズのアニメ制作をまともにできる国は日本とアメリカだけだが、日本の制作本数はアメリカのそれを遥かに凌いでいる。世界中で一年間に作られるアニメの六割が日本製であるというデータもある。世界中の子供たちが、日本製アニメの放映を楽しみに待っているのだ。テレビシリーズの制作という暴挙を可能にしているのは、強引な制作システムとアニメーターを始めとするスタッフたちの熱き情熱以外の何ものでもないだろう。

 しかし業界を俯瞰して眺める時、そこには需要を遥かに超えて垂れ流しのように氾濫するアニメの作品群がある。誰のため、何のためにこれだけのアニメが作られなければならないのだろうか。もちろん優れた作品もあるが、レベルの低い作品もかなり見受けられる。それをただ作らされているクリエーターたちの姿に哀れを感じてしまうのは私だけだろうか。

 

資本主義の弊害

 資本主義経済のシステムは、製品の過剰生産と果てしなき市場の拡大を求めてくる。日本のアニメ産業はまさにその弊害に踊らされている感がある。一言で言うならば大企業の利潤の為にいいように使われていると言えるだろう。

では何故、いいように使われてしまうのか。よく言えば、アニメの現場で働く人たちがあまりにも純粋過ぎるからであり、失礼ながら厳しい言い方をするならば、社会音痴であるからと言えなくもない。ただでさえ安い制作費の半分以上をテレビ局や広告代理店に持っていかれ、なおかつ版権さえももぎ取られようとしているのだ。

また、各社が横の連携を取って結束するということができない事も大きな理由の一つだろう。現場の人たちは常にスケジュールに追われて多忙な上に、経営的にも自転車操業を強いられている為、目の前の仕事をこなしていく以上の事がなかなか出来ないのが現状なのである。

 そのような中でも、制作会社を中心とした「日本動画協会」や下請け会社を中心とした「アニメーション事業者協会」が、現場環境の改善とアニメ産業の発展の為に様々な運動をしている。両者がそれぞれの枠を越えて手をつなぎ 新世紀にふさわしいアニメ業界を作っていただけることをただ念願するのみである。

 

権力の構図

 支配する側は、支配される者が賢くなり、結束することを恐れるものだ。そのためにあらゆる手段を使って「服従することが安定をもたらす」という考えを刷り込もうとし、手を繋ごうとする者同士の分断を謀ってくる。これは悠久の昔から繰り返されてきた支配者と被支配者の法則である。

 戦後、日本という国は確かに民主化されたが、その裏で、権力を持つ者たちは、彼らにとって都合の良い世の中を作ろうと腐心してきた。彼らにとって都合の良い世の中とは、数少ない権力者とそれに付き従う多くの羊たちという構図を持った社会なのだ。

 これは、具体的な誰かによる謀略ということではなく、資本主義というシステムの中でエゴイストが権力を持とうとすれば必然的に起こって来る「流れ」のようなものだと思う。その「流れ」の中で、黒い権力者たちはマスコミを通じ、また、文部省教育を通じて一億総羊化計画を推進してきました。そしてそれは、ほぼ完成の域に達しているようだ。

 現在、多くの国民は、公僕であるはずの政治家が汚職をしても「またか」と思うだけで怒ろうともしない。中小、零細企業が大企業の論理で潰されても、自分の身に火の粉が降り掛からない限り関心も示さない。一部の人たちが正義の為に立ち上がっても、冷たい目で見るだけで後に続こうとも協力しようともしない。年齢とともに人が保守的になっていくことは世の常であり仕方ないとしても、革新的息吹の代名詞であるはずの青年層が社会に対して無気力、無関心になってしまっては日本の将来はどうなってしまうのか。

 平均的と言われる範疇から逸脱することを恐れ、大樹の影に寄り添いながら無難に生きていく事をよしとする羊たちが見事に作り上げられてしまったのである。また、若者たちは指示待ち症候群と言われ、指示がなければ行動を起こせなくなっている事が識者から指摘されている。

 六十年安保、七十年安保の頃の学生運動を評価する訳ではないのだが、世の中を変えていこうとする「若者ならでは」の熱きエネルギーはいったいどこへいってしまったのであろうか。封じ込められたエネルギーは発散の場を失い、内に向かっては自らの精神を破壊し、一気に吹き出しては人を傷つけたりするようになってしまっているようだ。

 これと同列に論ずることには若干の躊躇があるのだが、あえて言うならば、ほとんどが中小、零細企業であるアニメ会社もまた、弱小であり純粋なるが故に権力の構図に組み込まれてきたと言えるだろう。生かさず殺さずといった扱いを受け、もとより小さかった牙をももがれ、結束する事もままならず、大企業からいいようにこき使われ続けてきたのだ。

 しかし潜在的なエネルギー、ポテンシャルを完全に封じ込める事はできない。先にも述べたように、心ある人たちが立ち上がり、協会という形で結束しながら水面下で地道な運動を続けてきている。

 地域的な結束としてはアニメ会社のメッカである杉並区や練馬区において、協議会というような形で組織作りが行われており、今後の活躍が期待されている。

 このような運動がやがて業界そのもののパワーをアップさせ、行政をも動かし、末端で働くクリエーターたちに本来あるべき権利の獲得をもたらしてくれることを信じ、応援していきたいと思う。

 

行政側の気付き

 近年、ビッグサイトにおける「東京国際アニメフェア」の開催など、アニメ産業に対する行政側の働き掛けには注目すべきものがある。これは日本のアニメやゲームが世界をマーケットにしたビッグビジネスに成長してきたこともあるのだろうが、それと同時に「アニメが世界に誇れる文化の一つ」であることを国が認めたからとも言えるだろう。

 宮崎駿監督の千と千尋の神隠しがアメリカでアカデミー賞を取り、続いてアニメ作家、山村浩二氏の短編アニメ「頭山」がフランスのアヌシーでグランプリを取った。その後、今敏監督の作品などが相次いで海外の賞を獲得しはじめた。日本のアニメが海外オタクだけでなく、世界の英知から高く評価され始めたのである。これに一番びっくりしたのは日本のお役人や識者と言われている人達だった。

 長い間、アニメは子供のものであり、文化的には低いものと思われてきたことは間違いない。確かにそう言われても仕方のない作品も実のところ沢山あったが、例えば、高畑勲監督の『母をたずねて三千里(日本アニメーション製作)』等、質的にはテレビ史に残る実写ドラマを凌駕するような名作はすでに三十年も前から作られてきており、とうの昔から日本は、アニメを文化たらしめる底力を貯えてきてはいたのだ。

 国は、日本のアニメのクオリティーの高さを海外からの評価で初めて気付かされたのだから、さぞかし驚いた事だろう。その体面を保つ為に慌ててアニメ産業の実態を調べ出し、「アニメは日本の文化です」等と今更ながら、すまし顔で言い始めたのだ。

国や都(アニメ会社の8割以上が東京都内にある)は、そのような調査の結果として当然、アニメ産業の底辺で苦しむ人達の実態は分かっている筈なのだが、それに対して今のところ何もしようとしていない。

いや、そんなことはない、と恐らくは言うだろう。確かに、人材教育にお金を投じてはいる。また、才能発掘の場を設けたりもしている。それはそれで勿論、評価するのだが、何十年も前から現場が求め続けてきたことは「アニメを生涯の仕事として、人並みに飯が喰える」ことなのだ。

 どんなに才能ある人材を発掘しても、どんなにお金をかけて人材を育成しても、そのような人材を送り込む業界が今のままでは、せっかくの才能が発揮される前にリタイアしてしまうことにもなりかねない。行政がしようとしていることと、現場が求めている事に、私は大きな差を感じてしまうのだ。

 

手厳しい指摘

 アニメーターに限らず「クリエーターの業界は才能と実力の世界であり、それがない者は滅びるのみ」と言う手厳しい指摘をする人がいた。厳しい環境を撥ね除けて自己実現していく人こそ、真に才能や実力のある人材であり、そうでない者は去るのみ、と言うのである。

 例えば、ミュージシャンを目指す人達の潜在人口は富士山の裾野のように広いものだ。そこでは多くの人達がインスタントラーメンをすすりながら明日を夢見て頑張っている。しかし結果的にプロのミュージシャンになり、生活していける人は、ごくわずかにすぎない。多くの若者たちが結局、他に職を求め、ラーメンをすすった日々を青春の一ページとして想い出の領域に送り込むことになる。才能や実力のない者は生き残れないのがクリエーターの世界であり、それは自然の摂理でもあると言うのだ。 

 この厳しい指摘には、確かに一理はあると思う。しかし、と私は思うだ。そのような人達にも職業選択の自由はあるし、人並みな暮らしをしていく権利は当然ある。国はそのような人達にこそ、平均的な生活を保障する義務があるのではないだろうか。

各分野には、まさに天職とも言えるような才能ある人達はいるし、彼らはその分野を発展させていく原動力として貴重な存在となる。しかし、そのような人達だけでは世の中は動かない。才能ある人の実作業をアシストしたり、実務面で協力したり、世に知らしめビジネスとして成り立たせていく人達がいてこそ、その才能は世のため、人のためになり得るのだ。

 

世の中は民衆のレベルの反映

 国は、全ての人の努力が努力として報われる世の中を、そして弱い立場の人が生き甲斐を持って安心して暮らせる世の中を作るべきであり、その対象からアニメーターが外される等と言う事があってはならない。

 ただし、国と言ってもそれを構成しているのは我々国民であり、国を動かしていく政治家を選んでいるのも我々国民なのである。「政治を軽蔑する人は軽蔑すべき政治のもとでしか暮らせない」と言われるように、世の中は民衆のレベルを反映する。暮らしを良くしていこうと思うのであれば「世の中を良くしていこう。その為には自分のできる範囲で行動していこう。心ある人を政界に送り出していこう」等と思い、行動していく事が大切なのである。

 個人の幸せは社会の安定があってこそ成り立つ部分が多いものだ。その為には世の中の不正や矛盾に対して、それを糾していくべく声をあげなければいけない。声をあげない人、行動のない人には愚痴を言う資格すらないことを知ってもらいたいと思う。

アニメ業界には問題が山積しており、糾していくべき事柄に満ち満ちている。アニメーターを筆頭に、業界を構成している人達が問題意識を持って声をあげていくところにしか環境改善への道はないだろう。国が何かをしてくれることを期待するのではなく、自分たちの行動が国を動かしていくのだという意識を持って努力していく必要がある。

 

闇深ければ暁は近い

私は専門学校の講師として、長年多くの学生をアニメーターとして業界に送り出してきた。アニメは素晴らしいものだし、それを仕事にしていこうという若者達に自分の持てる全てを教えていくことには大いにやりがいを感じてきた。ただ一つ、心を痛めてきたのは、彼等を送り出していく事になる業界の実態の厳しさなのだ。

今後、アニメ業界がどのように変わっていくのかは想像もできない。しかし私は明るい未来があると信じている。これには、ほとんど根拠はないのだが、強いて言えば「闇深ければ暁は近い」という法則のみかもしれない。歴史を紐解いてみても混乱や崩壊の中から新しい時代が生まれている。日本のアニメ業界はすでにその究極の域に達しており、その中には先にも述べたような光明の兆しが見えてきている。冬は必ず春となるのだ。

今、世の中の変化には加速度的なものがある。かつて十年かかったことが一年で起こっていると言っても過言ではない。コンピュータの進歩はその最たるものだろう。

十年前に今のアニメ業界はほぼ予測できたが、今から十年後のアニメ業界は予測しがたいものがある。時々、学生からアニメーターの老後はどうなるのかと質問されが、彼等の老後、つまり四十年以上先のことを予測することが誰に出来るだろうか。

世の中は、スパイラル式に紆余曲折をしながらも着実に生成発展し進歩している。物質の時代から精神の時代に、そして競争・分断の時代から共生・融合の時代になりつつある。

いまだ、戦争やテロ、差別や貧困といった二十世紀の負の遺物が燻ってはいるが、それらは全てエゴという、人の心に巣食う魔物がもたらす現象である。その意味で、世の中を良くすると言う事は、人々の考え方や生き方を良くする以外にはなく、その為には、人権と生命の尊厳を根本とした「人間主義の生命哲学」が求められるのだ。

この「人間主義の生命哲学」こそが、アニメ作品の根底に置くべき永遠のテーマであると私は強く主張したい。

アニメがその啓蒙を使命とすることによって、人々の心に変革をもたらしていくだろう。結果として、それが平和な社会の構築に繋がっていき、同時に、アニメ産業に健全な発展をもたらしていくことになるだろう。

これこそが私の念願であり、理想なのだ。そして祈りを込めて切望するアニメ産業の未来予想図なのである。

以上