アニメな半生記 → アニメーターを目指して編

2・アニメーターへの憧れ

私は神奈川県立座間高等学校の二期生である。つまりは新設の高校で、入学した時には、先輩は二年生しかいなかった。入学当初、校舎はまだ建築中だったため、とある農業高校を間借りして授業を行っていた。

最初の頃は同じ中学から来た友人達とつるんでいたが、少しずつ他校出身の友人もできるようになると、妙に隣のクラスのある男が気になって仕方なくなってきた。背の高い真面目そうな奴で、名前を津田と言った。

何故あれほど気になったのかは分からないが、まさに「妙に」という言葉がぴったりの気になり方だったのである。今にして思えば、私は彼とどうしても知り合わなければならなかった、という事が分かっている。まさにそれは、生まれる前に決められていた重要なプログラムであったと言い切ることができる。

具体的に知り合うきっかけとなったのは、必修クラブの囲碁将棋クラブだった。私の父はアマチュアの将棋界では最高位の六段で、東日本大会で優勝したこともある将棋指しだった。その影響で幼稚園の頃から将棋を指すことは私にとって兄との遊びの一つだったのだ。私は迷うことなく囲碁将棋クラブに入ったが、そこに偶然、と言うか必然と言うか津田がいたのだ。

彼は囲碁を打っていたので、一年生の頃はニアミスを繰り返すに留まっていた。二年生の時、友人を介してついに彼と話すきっかけを得たのだ。話してみると、アニメが好きだという共通項が見つかった。しかも彼は8ミリカメラでアニメを作っていると言うではないか。アニメとは観るものだと思っていた私にとって、それはまさにコペルニクス的転回級の驚きだったのである。

 彼とのつきあいは急速に深まり、彼の家が通学途中の駅だったこともあり、しばしば遊びに行くようになった。折しも、日本で初めてのアニメ誌『季刊ファントーシュ』が刊行され、その本を通して「アニドウ」という組織があることを知り、アニドウ主催の上映会に津田と共に足を運ぶようになった。

北欧やカナダの芸術的なアニメ、人形や粘土による立体アニメ、ピンボードやカリグラフといった特殊な手法のアニメなど、アニメの映像表現の幅の広さを、上映会を通して知るようになった。また、アメリカにはディズニーに対抗して『ポパイ』や『ベティブープ』、『バッタ君街へ行く』などを作ったフライシャー兄弟がいたことや、ギャグアニメの奇才、テックス・アベリーがいたことなど、アニメの歴史や知識を、アニドウの機関誌『フィルム1/24』などから夢中になって吸収していった。

とにかく我々は、アニメについての事ならば、どんなことでも知りたいという欲求に満ち溢れていた。日本にあっては、戦前に政岡憲三や大藤信郎という凄いアニメ作家がいたこと、東映動画の長篇アニメは昭和四十年代の半ば以降、衰退していったこと、森康二氏、月岡貞夫氏、大塚康生氏、宮崎駿氏といった天才アニメーターがいことなども知っていった。

 この頃、私は手塚治虫氏のファンクラブ、二つに入会していた。一つは京都に本拠を置く公式のファンクラブで、もう一つは「青いトリトン友の会」というマイナーなファンクラブだった。手塚治虫氏のアニメクリエーターとしての才能には高い評価を下せない、と今ならば認めざるを得ないが、当時の我々にとって、手塚治虫氏は神様のような存在だったのである。

高校は進学校だったので、高三になった私たちは猛勉強をしなければならない時期を迎えた。私自身、英語の先生になりたい強い希望もあったので確かに一生懸命に勉強もしていた。しかし、アニメ熱は高まる一方で、大切な時期にもかかわらず、スタジオロビンという会社のセル画の通信教育を始めてしまったのだ。しかも、終了証までもらい仕事までしてしまっていた。仕事と言っても実際に番組のセル画を塗るのではなく、セル画でハッピーカードという販売用のポストカードやしおりを作るというものだった。私にとっては生まれて初めてのアルバイトということになる。そして暇さえあれば絵を描いていた。また、アニメソングをテープに蒐集するというミーハー的な趣味も嵩じて、まずいまずいと思いつつも勉強が手につかない日々がだんだんと増えていった。そして案の定、私も津田も受験に失敗し、砂を噛むような浪人生活を送ることになったのである。

次へ