世間ではほとんど知られることはなかったが、だいたい、一九八五年から一九九〇年にかけての数年間、まさにバブル経済の時期、日本のアニメーションの仕事のかなりの割合を合作が占めていた時期がある。ピーク時には半分を超えていたかもしれない。

 ここで言う「合作」とは、主にアメリカのアニメ会社と日本のアニメ会社との共同制作のことを言うが、立場は決して対等ではなく、実質的にはアメリカのテレビ番組の下請け作業だったのである。ほとんどの場合、絵コンテまでがアメリカで作られ、それをフィルムにするまでを日本が請け負うというものだった。

 なぜ、それほどまでに多くの仕事を日本が請けたのかと言うと、当時はまだ円が安かったからの一言に尽きる。一ドルが二百円以上だった為、動画単価ですら日本の作品の倍近くあったのだ。

 どんなに受注額が高くても末端に行き届かない体質の日本のアニメ業界で、動画単価がそこまで高いということは、合作の受注には相当な利益があったと思っていいだろう。事実、私が初めて合作の動画をやったときに「えっ、こんなに貰っていいの?」と思ったほどなのだ。合作ばかりやってお金を稼ぐ人のことを当時、ある程度、皮肉を込めて「合作貴族」などと言ったものである。

 私は『Theかぼちゃワイン』を一九八四年に終えて、『魔境伝説アクロバンチ』を少々やったあと、数年間に渡り合作に専念することになった。

日本の作品と合作との大きな違いはズバリ、セリフだろう。日本の作品のほとんどは映像が出来たあとに、その画面を見ながら声優さんが声を吹き込む。これをアフターレコーディングの略でアフレコと言う。一方、海外の作品の多くは、プレスコと言って、先にセリフを収録してしまい、それに合わせて作画をするというシステムなのだ。アニメーターは詳細なセリフの指示に合わせながら数種類の口の形を当てはめていくことになる。結果として口の動きと、聞こえてくるセリフがぴったりとシンクロするのだ。

日本のアニメの場合は、喋っている間、口がパクパク動いていれば良い、という発想なので口の形は三つしかない。「サザエさん」に至っては二つしか使っていないのだ。当然、口の形はセリフの発音とシンクロしないが、慣れてしまえば何の疑問も持たないものなのだ。声優さんたちも、時にアドリブを交えながら、うまくセリフを当ててくれる。アフレコの現場には何度か立ち合ったことがあるが、「さすがにプロだ」と感心したものである。

 海外の作品と日本の作品には、セリフだけではなく、作画システムそのものに大きな違いがあるのだが、これは別枠で論じることにしよう。ただし、合作というのは作画以降、完パケ(完全パッケージの略で納品できる状態の完成品のこと)までが日本の作業なので、出来てしまえばどのようなシステムで作ったかなどは関係がないため、日本のシステムで作っていったのだ。

 私が原画マンとして携わった合作は、『GIジョー』というアーミー物、『ジェム』(右写真)というロックンロール少女物、『トランスフォーマー』という変形ロボット物、『ゴーストバスターズ』というお化け退治物、『ジェットソンズ』という未来ファミリー物、『マペットベイビーズ』という人形ギャグ物などだ。

 『マペットベイビーズ』は作画監督として長期にわたり携わったので思い入れはあったが、それ以外の作品は正直に言って、どれも気の乗らないものばかりだった。セリフが英語の上、日本のテレビで放映することもない、つまり日の目を見ないことも理由の一つだったのかもしれないが、やはり文化の違いというのが大きかったのかもしれない。

 ここで、忘れがたいエピソードを一つ紹介しよう。

 私が『GIジョー』の原画を描いていた頃のことである。バイクで帰宅する途中、渋滞している車を脇目に路肩を走っていると、タクシーのドアが急に開いたため、ブレーキが間に合わずぶつかって転倒してしまった。その時は急いでいたこともあり、たいしたこともないと思ったため、「大丈夫です」と言いつつ立ち去ったのだが、右太ももの外側を強く打っていたらしく、翌朝、内出血で大きな痣ができていた。

 湿布を貼り、何日か様子を見ていた所、だんだんと内出血が引いていったので大丈夫かなと思っていたのだが、一ケ所だけ妙に膨れてくる部分があるのだ。病院に行って視てもらったところ、「袋ができていて水がどんどん貯まっているので、すぐに手術します。明日にでも入院して下さい」と言われてビックリ。しかも入院期間は十日ほどになるとのこと。

 さっそく「GIジョー」の制作担当のK氏に伝えたところ、「それは困る。今持っている原画を描き上げてから入院してほしい」という血も涙もない返答。結局、入院できたのはそれからなんと一週間後のことだった。

私にとっては、入院も手術も生まれて初めてのことだった。若い看護婦さんに某所の周辺の毛を剃られたり、下半身に麻酔をかけての手術に緊張したりと大変だったが、長い人生から見れば、いい経験だったと思っている。入院は十日間の予定だったところ経過も良く、一週間で退院することができた。  

会社には十日間と言ってあったので、しめしめ三日間はゆっくりしようと思っていたところ、何と私が退院したその日の午後に、制作担当のK氏がお見舞いに来てしまった、と言うか来て下さってしまっていたのだった。K氏から電話が入り「何だよ小幡くん、お見舞いにいったらもう退院しているって言うじゃない。で、いつから仕事ができるの?」と言われ、結局、翌日から仕事に行くことになってしまった。チャンチャン。

ちなみに手術のあとは、今でも冬になるとほんの少し疼くことがある。

私のアニメーター歴の中で、最も思い出深い時期は、合作の『マペットベイビーズ』の作画監督をやっていた、二十九才から三十路にまたがる二年間だったように思う。 

『マペットベイビーズ』と言うのは、クマやカエルやブタの人形たちが子供部屋を舞台に豊かすぎる想像力で大冒険をしていく楽しいアニメだった。

仕事的には、ただただ忙しく、東映動画の別館一階のスタッフルームに詰める毎日だった。二年目は、正月の三日間のみのお休みで、あとは全て出勤した。
 次から次へと上がってくる原画が山となり、それらをひたすら作監修整で切り崩していく日々。もちろん自らも原画マンとして数十カットを担当した。作監作業のストレスは、自ら原画を描くことでしか解消できないのだ。そんな格闘の日々を楽しく過ごせたのも、スタッフルームの気のいい仲間達のおかげだったと思っている。

 ここで『マペットベイビーズ』のスタッフルームの仲間達を紹介しよう。

 動画チェッカーのN君は私と同じくらいの年だったが、アニメーターになったのが遅かったため動画チェッカーの立場に甘んじていた。「忙中閑あり」と言いうが、彼とはよく中庭でのバドミントンや会議室での卓球に興じた。特に卓球は私の楽しみの一つで、高校時代に使っていたラケットを引っぱり出し、ラバーを張り替えて臨んだ。

 もう一人、Iさんという私より年上の動画チェッカーさんがいた。かなり小柄なとっちゃん坊やといった感じの方で、存在そのものがギャグといってもいい面白い人だった。Iさんが痔で入院した時、手当てをする看護婦さんの前で、おしめを取り替えられ「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣く赤ちゃんのまねをしたことが大受けして、結局その看護婦さんと結婚することになったおかしな人だ。まさに、縁は異なもの味なものである。

 『マペットベイビーズ』は合作なのでアメリカ人のスーパーバイザーが常駐していた。その通訳を勤めていたのがNさんという三十才くらいの女性である。バツイチで、五、六才の男の子を一人で育てているきれいで気さくな人だ。 職場には時々その息子が遊びにきたが、人見知りをしない明るい子で、母子ともに逞しく生きている、といった感じだった。

 演出助手のSさんはとても明るいおおらかな女性で、社内の演出家と同棲していた。いつも職場がなごんだのは、彼女のおかげだと言ってもいいだろう。明るい女性のいない職場は、まさに、何とかを入れないコーヒーのようなものだ。彼女はちょっとおなかが出ていたため、彼氏と二人で家具売り場を歩いていた時、店員に妊婦と間違えられたと言って怒っていたことがあったのだが、そんな愉快なエピソードをいつも提供しては、笑いの渦を巻き起こしてくれた。ただ、ひとつ問題があるとすれば、話し始めるとなかなか止まらず、聞いている側が仕事にならなってしまうという難点があった。

 原画のMさんはカーペンターの後輩の女性で、感情の起伏のとても激しい子だった。 時には、腫れ物にさわるような扱いをしなければならないこともあったが、それがまたスタッフルームをぴりっと引き締めてくれていたとも言える。彼女は子供の頃に見た東映動画制作の「バビル二世」に魅せられて、その恩返しの為に東映動画に入ったという、思い入れの強い変わった人だった。プライベートでは、とことん馬の絵に凝っていたが、その思い入れの強さが、感情の起伏の激しさと結びつき、時にガラスのような危うさを感じさせるタイプの女性だった。 

 作画監督のOさんはベテランの社員アニメーターだったので、スタッフルームにはいなかったが、顔を合わすたびにいつもニコニコと優しい言葉をかけて下さった。その他の人たちも、みんな気のいい優しい人たちばかりだった。

 東映動画の受注していた数多くの合作アニメは、私たちが『マペットベイビーズ』に取り組んでいた二年間の中で、一つ、また一つと減っていった。円高が進み、一ドルあたりの価値が急変していった時期だったの。一ドルは二百円を割り、百九十円、百七十円、百五十円そして百三十円と変わっていった。百五十円を割った時点で経済的なメリットはなくなりつつあった。

そしてある日、来るべき時がやって来たのだ。私たちの『マペットベイビーズ』も、ついに終了することになり、スタッフルームの解散が決まったのである。私個人は、引き続きその部屋の同じ机に残してもらえることになったが、アウトプロから出向で来ていた人たちはそれぞれの会社に戻り、社内スタッフは別のスタッフルームに散っていった。いつか来ることが分かっていたXデーだったが、とても寂しく感じたのを覚えている。

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8・合作の頃