一九七八年の九月から翌年の二月までの半年間、私は東映動画の「アニメーター養成講座」に通い、アニメーターとしての養成訓練を受けることになった。受講料は九万円。授業は一日置きで、教室は東映動画の三階会議室に常設されていた。

午後六時から九時までの三時間の授業だったが、六時に間に合うためには会社を五時には出なければならなかった。グループジョイの勤務時間は六時までなので、社長と相談をして、皆より一時間早く出勤して仕事をすることで、五時に会社を出ることを許してもらった。私がアニメーターを目指していることに理解を示してくれ、心遣いをしていただいた社長には心から感謝をしている。

 荻窪の会社を五時に出て、自転車で西荻窪駅まで行き、そこからバスで大泉学園駅前に行く。そこから徒歩で駆け付けるとちょうど六時になるのだ。  

夜の部に集った二十五名は、夜ということもあり、私のように働いている人や大学生が中心で、男子高校生も一人いた。

 世話役は渉外部の小田克也氏。もとはアニメーターの方で、仕事の傍らで映画の評論などもしている多才な方だ。講師は月岡貞夫氏。東映動画出身のアニメ作家である。手塚治虫氏が東映動画の『西遊記』に関わった時にアシスタントとして一緒に来た方で、アニメの方が性に合っていた為、アニメーターとして東映動画に居ついてしまったそうだ。

月岡氏は『わんぱく王子の大蛇退治』のラストの名格闘シーンを大塚康生氏とともに描いたことは有名である。また、東映動画初のテレビアニメ『狼少年ケン』のキャラクターデザインから原画、主題歌の作詞まで行ってしまったことは今でも伝説として語られている。東映を出られてからはアニメ作家として多くのCMを手掛ける一方、NHKの『みんなの歌』や子供番組のアニメに携わっています。 アニメCM史に燦然と輝く、キユーピーマヨネーズのピーターラビットや富士通のタッチおじさんは氏の作られたものだ。ちなみに、昼の部の講師は東映動画の大べテランアニメーター、大工原章氏だった。


月岡氏の初回の授業は『アニメーションの出来るまで』という映像と、日本初の長篇カラー劇場アニメ『白蛇伝』の鑑賞。そして受講生の紹介が行われた。

二回目以降は、特別講義やスケッチ会を挟みつつ、「歩き」「走り」「スキップ」「犬の走り」「自然現象(火、水、風)」「自主創作アニメ」と進んでいった。

 月岡の指導(下記カリキュラム表参照)は、アニメの奥の深さを叩き込んでくれる内容の濃いもので、教える前に考えさせるという訓練を徹底して積ませて頂いた。そのポリシーは教える立場になってから、大いに役立った。毎回の授業が「そうか、そうか」という発見の連続で、着実にアニメーターとしてのスキルが身に付いていく実感を持てたワクワクの半年間だった。

 特別授業では、もとアニメーターの有名イラストレーター、永沢洵氏やアニメ監督のりんたろう氏、作画監督の小松原一男氏、小田部羊一氏、奥山玲子氏など、今にして思えばすごい人たちの講義を受けることができた。

すぐ後ろの席に座っていた大学生のN君は、抜群の絵のうまさに加え、アニメの知識も豊富で、大学のサークルでは実写の映画も作っていた。彼とはすぐに親しくなり、彼のアパートに遊びにいくようになり、多くの影響を受けた。アニメの歴史やジャンルを系統的に整理して、深い観点から作品論を展開できる彼には誰もが一目置いていた。現在彼は自分のアニメスタジオを持ち、CMなどを中心に、かつての師匠である月岡氏を凌駕するほどの活躍をしている。教室では、そんなN君を始め、皆がお互いに刺激を受け、切磋琢磨していったのである。

 講座では、授業外にもコンパやクリスマスパーティーが行われ、親しくなった仲間たちと楽しい思い出を刻むことができた。また、夕食を食べる暇もなく駆け付ける私のような生徒も多かったので、授業中にラーメンの出前を取ることが許されていた。郷愁もあるのだろうが、あの時のラーメンほど美味しいラーメンはなかったような気がする。

卒業制作に当たる「自主アニメ創作」は一人が一本のアニメを作るというものだった。しかも、さすがに東映動画、撮影には贅沢にもテレビ用の撮影台を使い、十六ミリフィルムで撮影した。

卒業制作の上映会は非常に見応えのあるものになった。講座生は、さすがに選ばれた人たちだけあって、その後の活躍を暗示させる力作ばかりだったのである。私もまた、日本のテックス・エイブリー(アメリカのギャグアニメの大御所)を目指して不条理ギャグの短篇を作った。

その頃、授業とは別に、実践力を身に付けるために何人かの受講生には本番の動画を経験させてもらえる機会が与えられた。

私が初めて携わった動画はNHKで放映中だった『キャプテンフューチャー』という作品で、頭の割れた宇宙人がひざまずいて岩石をもぐもぐ食べるというカットだった。他にも『花の子ルンルン』で、猫が歩いて右手前から奥に進んでいくカットもやらせてもらった。出来上がりを持参してスタッフルームを訪ねると、見てくれた方が「良く出来ている」と誉めてくれた上で、しっぽなどの柔らかい物の、より良い動かし方を教えてくれた。

何人かの講座生に私の友人の津田も加えさせていただき吉祥寺にあった月岡のスタジオ「マジックランタン」に遊びに行ったことは楽しい思い出である。
(上写真:ゲンコツを構えているのが月岡先生。左端が津田)
また、月岡
から個人的にCMのセル塗りのアルバイトを頼まれたことがあり、月岡のスタジオで泊り込みの作業をしたことは誇らしくも貴重な思い出になっている。

 さて、アニメーター養成講座も終盤にかかったある日、終了後の我々の身の振り方について発表があった。昼夜合わせた五十人のうち、二十五人が選抜されて東映動画直属の作画スタジオ「スタジオカーペンター」の設立メンバーになり、残りの二十五名を東映動画傘下の下請けスタジオに割り振るという内容だった。その後、個別に打診があり、私は「スタジオカーペンター」に入れることになった。

卒業パーティーを終えた五十人の若者達は、夢と希望と不安を抱えつつ、それぞれの場所に散り、養成講座生の誇りを胸に活躍することとなったのである。
(右写真の一番右がおばた先生)

 世話役だった小田克也氏の著書に「アニメーターになれる本(実業之日本社)」がある。その本のあとがきに含蓄の深い一節があるので、以下に転載させていただくことにする。

 

 ぼくらが入ってきたころと違って、いまは絵さえ描ければ、比較的簡単にアニメーターになれる時代でもあるのだ。

 アニメの技術的レベルも、比較にならないほどあがってきた。

 しかし、アニメーターの圧倒的量に比して、天才的なアニメーターは、どれほど生まれる可能性があるのだろうか。それほど分担が細分化されてしまったのだ。

 キミたちもアニメ以外のすべてのことにも興味を持ち、若々しく行動し、かたよらないアニメーターをめざしてもらいたい。アニメーターはつらい。だが、また、アニメーターほど楽しく、面白い仕事もないのだ。

 ぼく自身もアニメーターになりたてのころ、こんなに面白い仕事は、世の中にまたとあろうかと、信じて疑わなかった。だが、いろいろな事情で鉛筆を持つ手が重くなったとき、アニメーターを卒業しなくてはならないのだ。そういう意味で、アニメは非情でもある。

 昭和三十二年に、東映動画に入ったぼくら九人の同期生で、いまもアニメーターをやっているものは、ひとりもいない。

 次へ 

アニメな半生記 → アニメーターを目指して編

8・アニメーター養成講座での半年間