アニメな半生記 → 現役アニメーター時代編

3・怖いもののなかった動画マン時代

 スタジオカーペンター丸は二十五人の若き冒険者達を乗せて、アニメ業海という大海原に出航した。「スタジオカーペンター」という変なネーミングは、東映動画からの出向で社長職についた大ベテランアニメーター、大工原 章(だいくはらあきら)氏の名字に因んだものだ。新人アニメーターと社長以外では、自分でもスタジオを持っているK氏が一日置きに入って、大工原氏と共に動画マンの指導に当たってくれた。一年後にはAさんという、とてもきれいで心優しい事務スタッフが入社してきた。

 動画マンの仕事は毎日、東映動画からの定期便で制作進行さんが運んで来た。

作品としては『SF西遊記スタージンガー』や『キャプテンフューチャー』、『燃えろアーサー』などが中心で、手の空いたスタッフが原画の入っているカット袋の置き場から取っていくというシステムだった。(下の写真は当時のおばた先生です)

 給料は基本的には出来高制で動画一枚の単価が130円だったが、最低保証金額があり、ノルマとされていた月産五百枚が描けなくても、六万五千円はもらえた。五百枚を超えるとその分が六万五千円に加算されるというシステムだったが、私は二ヶ月目でそのノルマをクリアーした。手だけは早かったようである。年金は国民年金だったが会社が負担してくれた。

一年後には単価が百五十円に上がった。二年目には動画を月産千枚は描くことができるようになり徐々に収入も上がるようになった。

問題なのはあれから四半世紀以上経った今でも動画単価が百五十円というスタジオはざらにあり、中には百円しか出してくれないという会社が今もってあるという驚くべき事実だ。これについては別枠で論じていく。

 それはともかく、当時の我々は貧しくとも夢に溢れていたが故に、苦しくとも楽しい日々だった。お金がないときの昼食は、立食いうどんやパンと牛乳などでしのぎ、お給料が出ればみんなでトンカツなどを食べに行った。もちろんご飯とキャベツはお代わり自由の店に行き、3杯はおかわりをした。

二十五人の男女比はほぼ半々だった。特定のカップルが出来るまでの男女の集団交際は、微妙な心の駆け引きなどもあり、甘酸っぱくも楽しいものだった。残業で遅くなる時には夜食を買いに皆でコンビニにくり出した。休日にはみんなで映画や動物園、別のアニメスタジオの見学などに行った。

私の隣の机には、福岡出身の小柄でかわいい女の子が座っていた。名前は早原ゆみ子(右写真)と言った。幾人かの仲間達も思いを寄せていたようだが、結果的に一年後、私と交際するようになった。バレンタインデーの前日に彼女の方から「明日、チョコレートを贈りたいんだけど貰ってくれるかしら」と言ってきたことがきっかけだったのだ。現在、妻は子供達に「パパの方から言い寄ってきたのよ」と吹き込んでいるようだが、真実は一つなのである。

初めてのデートは西武池袋線の中村橋の駅で待ち合わせて、池袋に行った。私の名前が出ているはずのアニメ映画、『家なき子』を見るはずだったが、やっているはずの映画館に行くと客の不入りで早々に打ち切られており、仕方なく替わりにやっていた高倉健が主演の『遥かなる山の呼び声』を見るはめになった。それなりに面白かったのでまあ良かったのだが、その後で別の映画館で見た手塚治虫監督のアニメ『火の鳥2772』はあまりに面白くなかった。

二回目のデートは彼女が大ファンの宝塚歌劇の観劇だった。化粧おばけの世界かと思いきや意外と面白く、感動までしてしまい、私もそれ以来、はからずもその世界に少々足を踏み入れることになった。次第に交際も深まり、彼女は私にとってなくてはならない存在になっていった。

さて、話をアニメに戻そう。

ある日、大工原社長から劇場作品を担当する動画マンを五人選抜するという発表があった。りんたろう監督の『銀河鉄道999(劇場版)』の動画スタッフとしてレベルの高い動画の描けるスタッフを人選すると言うものだった。幸いに、私も彼女も選抜され、しばらくの間、『999』の動画に専念することになった。

東映動画としても、原作者の松本零士ブームに乗って大ヒットを狙って大キャンペーンをはっていたので、仕事としては非常にやりがいのあるものだった。ゴダイゴの歌う主題歌『ギャラクシーエクスプレス999』も大ヒットした。

私はトータルで四十カットほどの動画を描いたが、この作品はエンディングテロップに動画マンとして初めて名前が出た、記念すべきデビュー作ともなったのである。

公開後には、徳間書店のロマンアルバムを始め特集本が何冊も出たが、スタッフ名が掲載された本は全て購入し、今でも大切に取ってある。名前が出るということは、自分が歴史に名を留めたことにもなり、ただ純粋に嬉しいものだ。親兄弟や親戚も喜んでくれた。

テロップに名前が出ることにはそのうちにだんだんと慣れてきて、どうと言うこともなくなっていったが、後年、作画監督として単独で名前が出るようになった時は「自分の作品だ」という満足感があった。

さて、動画マンとしての私は、着々と力をつけ、描く枚数もあがるようになったが、それでも収入は十万円そこそこだった。入社二年目に原付きの免許を取り、ホンダのタクトを購入したので最終バスを気にせず遅くまで会社に残ることができるようになった。

スクーターとは言え、欲しくてたまらなかったのでとても嬉しかったのを覚えている。スクーターはその後、何度も買い替えて今に至っているが、一度だけ「リード」にした他は全て「タクト」で通している。

動画マン時代を振り返って今、思い出すのは何故か仕事よりイベント的なことばかりである。仕事がらみでパッと思い出すのは『地球(テラ)へ』という劇場作品の追い込みで会社に三泊したこととか、『銀河鉄道999』で二メートルにも及ぶ長い動画を描いたことくらいだ。

長篇作品が完成するたびに行なわれた試写会後の立食パーティーは新人アニメーターの我々にとっては特に楽しみの一つだった。おいしいものが食べられるというだけでなく、原作者や声優さんが来ることもあるからだ。裏方の動画マンにとっては、アニメの華やかさに触れることのできる数少ない機会だったのだ。

 他には、会社の忘年会で盛り上がって意識を失ってしまったこと、会社の遠足で山登りをしたり動物園へ行ったこと、ソフトボール大会でへとへとになったこと、などが懐かしく思い出される。

 辛かったことと言えば、時々、仕事が切れて手空きになってしまうことだった。

手空き状態が二、三日続くと収入に響くのでさすがに焦る。「メーター(アニメーターのこと)殺すにゃ刃物はいらぬ、仕事の3日も切れりゃいい」などと言ったものである。

その間は主に絵の練習などをして過ごすのだが、「今日はもう仕事が来そうもない」となれば、外に飛び出してしまうこともあった。出たからと言ってお金は使えない。本屋で立ち読みをしたり、ウインドウショッピングをするのがせきの山だった。まだ若く、何も怖くなかった青春そのものの時代、それが私の動画マン時代だったのである。

次へ