アニメな半生記 → アニメーターを目指して編

1・アニメで育った少年時代


私は一九五八年(昭和三十三年)三月九日に、この世に生を受けた。いわゆる早生まれだ。早生まれの悲哀を御存知だろうか。それはクラスのみんなが先に年上になってしまうことである。なかんずく、好きだった女の子より年下になってしまうのは辛いものがあった。

それはともかく、一九五八年という年は、第二十九回日本アカデミー賞十四部門受賞の名作映画『ALWAYS 3丁目の夕日』の舞台となった年でもあり、映画の中で描かれていたように東京タワーが完成した年だ。また、一万円札が発行された年でもあり、日本アニメ史的には、奇しくも日本初の総天然色長篇漫画映画『白蛇伝(東映動画製作)』が公開された年でもあるのだ。

わざわざ総天然色、つまりカラーであることをうたいあげているのは、当時まだカラーの映画が少なく、モノクロが主流を占めていたからだ。のちに、ポルノ映画で肝心なシーンだけカラーになる映画のことをパートカラーなどと言ったものだが本論とは全く関係はない。つまりはそういう時代だったと言うことだ。

さて、日本初のテレビアニメの歴史は、一九六三年一月一日放送開始の『鉄腕アトム』によって幕が切って落とされた。これは、漫画の神様と言われた手塚治虫氏が率いる虫プロダクションの製作である。すでに物心が付いていた四歳の頃の作品なので、私はまさに日本のアニメとともに成長してきたと言っても過言ではないだろう。

今でこそ、テレビは一家に複数台の時代でありパソコンや携帯電話でもテレビが見られるようになったが、当時はテレビがない家も珍しくはなく、かろうじてテレビのあった我が家にテレビのない家の友達が見に来ていた時代だった。

 『鉄腕アトム』は関連商品が爆発的に売れたこともあり三年間に渡っての放送という長寿番組となった。当時まだ、カラーテレビが発売されていなかったため、アトムは当然モノクロ作品だった。テレビアニメで初のカラー作品は二年後、一九六五年の『ジャングル大帝(虫プロ製作)』まで待たなければならない。当時、エノケンこと榎本健一が歌った三洋電機のカラーテレビのCMソングが甦ってくる。

「うーちのテレビにゃ色がない、とーなりのテレビにゃ色があるー♪」

ところで、アニメの制作というのは大変に時間のかかるものなので、三十分番組を毎週放映するなどという事は当時の常識では全くもって狂気の沙汰だった。なにしろアニメ制作会社の最大手、東映動画(現、東映アニメーション)ですら当時は長篇アニメを年に二本作るのがやっとの時代だったのだ。      

そのような中でテレビアニメ,三十分番組のシリーズ化を可能にしたのは徹底した制作方法の合理化によるもので、まさに企業努力の賜物である。

『鉄腕アトム』はアニメとしては極端に動画枚数を抑えた、いわゆるリミテッドアニメーションである。また、それまでは絵が動く場合、一秒間に十二枚の動画を使う二コマ撮りが常識であったのに対し、一秒間に八枚ですむ三コマ撮りを採用し、口パク(セリフを喋るときの口の形)もそれまでの数枚から三枚に抑えた。更に、使用したセルや背景を保管して極力、使い回していく「バンクシステム」を起こすなど、徹底的な合理化を行い、良きにつけ悪しきにつけ、その後の日本のテレビアニメの制作スタイルを決定付けた作品なのである。

ほとんど伝説と化している話だが、手塚治虫氏はテレビアニメの製作に他社が参入できないよう、破格の低価格でアニメの製作を受注したのだ。それが今に至るアニメ関連職種の低賃金の根源的な原因だと言われている。    

そんな手塚氏の思惑とは裏腹に、日本アニメ界の老舗、東映動画を始め、各社が陸続とテレビアニメの製作に着手し始めた。もはやこれは抑えようもない時代の流れであったのだ。

 一九六三年、私が坊ちゃん刈りの幼稚園児の頃、『鉄腕アトム』で始まったテレビアニメシリーズだが、同年の内に『鉄人28号(TCJ=現エイケン製作)』、『エイトマン(TCJ製作)』、『狼少年ケン(東映動画製作)』の放送が開始され、翌年には『0戦はやと(ピープロ製作)』、『少年忍者風のフジ丸(東映動画製作)』、『ビッグX(東京ムービー製作)』の三本の放送がスタートした。まさに、高度経済成長期を象徴するかのような勢いだった。国産アニメの台頭は子供達とスポンサー、さらに時代のニーズに応えたものと言って良いだろう。

 テレビアニメ草創期のアニメ業界は急速に膨らんだがために、人材が不足していた。東映動画の若手アニメーターが虫プロなどへ、かなり移籍もしたようだが、アニメを知らない相当数の漫画家くずれの人たちが流れ込んだこともあって、当時の作品を今、見直すとアニメとしてのレベル面で、かなり問題のある作品が多いことは確かだ。しかし、私を含めたその当時の子供達には関係ないことだった。アニメというだけで、ただひたすら夢中になって見たものだ。

 当時はまだアニメという言葉は一般的でなく、テレビ漫画と言っていた。

その後の作品群については本稿の主旨でもないのでいちいち触れないが、私的な思い出の範疇で少々お気に入りの作品を紹介させて頂こうと思う。

 一九六五年の『スーパージェッター(TCJ製作)』の主人公ジェッターは三十世紀、つまり一千年の未来から時の流れを越えてやってきたタイムパトロール隊員だ。当時は、胸をしめつけんばかりの思いで未来世界への憧れを抱いたものである。特にジェッターが操縦する「流星号」という乗り物は今でも憧れの的だ。時間航行装置が故障してはいるものの、マッハ十五のスピードで空を飛ぶ、意思を持ったパトカーなのだ。流星号が空を飛ぶ時の効果音は、想像するだけで今でもはっきりと聞こえてくる。

 同年の『宇宙少年ソラン(TCJ製作)』、『宇宙エース(タツノコプロ製作)』、『遊星少年パピィ(TCJ製作)』の主人公らは全て宇宙人である。 夜、布団の中で「もしかしたら自分も宇宙から来た少年では‥‥」と、何度思ったことだろう。

 翌一九六六年、三年生の時の『おそ松くん(スタジオゼロ製作)』は私をギャグに目覚めさせた作品だ。原作者である赤塚不二夫氏のレギュラーキャラ、イヤミやハタ坊、チビ太にデカパン、ダヨーンのおじさんと言ったユニークな登場人物たちがとにかく面白くて、毎週の放送日を指折り数えて待ったものだ。たまたま人からもらった漫画雑誌に載っていた『おそ松くん』を何十回も読みなおしたことは懐かしい思い出である。今でも一連のキャラクターたちの絵は描けるが、当時、友だちに描いてあげては喜ばれたものである。漫画家になりたいなどと思い始めたのは、この頃のようだ。

 翌一九六七年の『悟空の大冒険(虫プロ製作)』もギャグ物だったが、おそ松くんの泥臭いギャグとは対照的に、アメリカナイズされ洗練されたスラップスティックギャグにすっかりはまってしまったものだ。当時、一番好きなアニメは何かと聞かれた時に、迷わず『悟空の大冒険』と答えた記憶がある。この作品の総監督である杉井ギサブロー氏は、二〇〇五年公開『あらしのよるに』の脚本・監督であり現在も現役で活躍しておられる。

 同年の『マッハGOGOGO(タツノコプロ製作)』は少年の憧れであるカッコよさを象徴する作品だった。主人公もさることながら、マッハ号という沢山の機能を持ったレーシングカー(死語?)のカッコよさは筆舌に尽くしがたく、当時四年生だった私は、ボール紙工作でレーシングカーばかり作っていた。

 カッコよさという点では、翌年の『紅三四郎(タツノコプロ製作)』はその究極に位置する作品だ。紅い柔道着を肩に下げ、父の敵の片目の男を追い求めて旅する主人公に私は完全に同化してしまい、さすらいの風雲児になりたい、と心から思ったものである。ちなみに同年、超高視聴率の超長寿番組『サザエさん(エイケン製作)』が始まっている。

私が三〜六年生のころに通っていた小学校では講堂に児童達を集め、子供向けの映画を見せてくれる機会がたびたびあった。特にアニメーションの時は嬉しかった。東映動画の『わんぱく王子の大蛇退治』や『アンデルセン物語』などは子供心に強烈な印象を残している。今にして思えば、将来アニメーターになる遠源がここにあったと言っても過言ではないかもしれない。

私の妻も当時、九州、福岡の地で同じような鑑賞会を経験しており、やはり東映動画の『太陽の王子ホルスの大冒険』を見た時に、小学生ながら、アニメーターになることを決意したそうだ。このあたりまでが私の小学生時代の思い出となる。

 中学生の頃は『巨人の星(東京ムービー製作)』、『タイガーマスク(東映動画製作)』、『あしたのジョー(虫プロ製作)』、『アタックbP(東京ムービー製作)』、『キックの鬼(東映動画製作)』、『空手バカ一代(東京ムービー製作)』、『エースをねらえ(東京ムービー製作)』、『侍ジャイアンツ(東京ムービー製作)』など、スポーツ根性物、略して「スポ根もの」のブームで、卓球部に所属はしていたものの、全然スポーツ少年でなかった私も手に汗握り、夢中になって見ていた。

 スポ根アニメのテーマは「努力」であり「根性」である。主人公がいかなる困難や逆境、差別にもめげず勝利を勝ち取っていくサクセスストーリーだ。ただし、梶原一騎の原作ものでは、その境地に至るまでに悲劇的な代償を払うことが多い。私の年代では少なからず、これらの作品群から生き方に影響を受けているはずである。

巨大ロボットアニメのはしり『マジンガーZ(東映動画製作)』は学校でも「見たか?」「見たぜ」と話題になった作品だ。

アトムのように自分で動くのではなく、鉄人二十八号のように操縦されるのでもなく、ホバーパイルダーに乗った主人公がミサイルをも跳ね返す超合金ロボットの頭部に合体して操縦するという画期的なスタイルに当時の子供たちは驚かされ、しびれたのだ。

原子力でなく光子力エネルギーを使い、環境にも優しいマジンガーZの武器は何といっても腕の部分を敵に発射する「ロケットパンチ」。そして胸から高熱を放射して相手を溶かしてしまう「ブレストファイヤー」、強酸を口から霧状に吹きかけて相手をボロボロの塵と化してしまう「ルストハリケーン」、目から発射する「光子力ビーム」といった具合に全てが斬新、ワクワクものだった。実質上、その後の巨大ロボットものの元祖といえるだろう。

性教育アニメ『不思議なメルモ(虫プロ製作)』にドキドキしたり、『デビルマン(東映動画製作)』、『キューティーハニー(東映動画製作)』、『ミクロイドS(東映動画製作)』、特撮ものでは『人造人間キカイダー』など、夜八時すぎの子供番組にも夢中になった。

午後八時以降のアニメと言えば、今では深夜アニメ以外に考えられない。八時代に子供向けのアニメや特撮ものをやっていたのは一九七〇年代の前半 のこの時期だけである。一説によると、視聴率五十%超、TBSのおばけ番組、ドリフターズの『8時だヨ!全員集合』から子供たちを取り戻すべくNET(現・テレビ朝日)が画策した企画だったようだが、見事に成功したと言っていいだろう。私は一連のアニメ、特撮を観たあと九時からのハードボイルドアクションドラマ『キーハンター』を観るのが至福の時間帯であった。 

 二人の弟が十才と十二才も離れていたこともあり、冬休みと夏休みの『東映マンガまつり』には毎回、引率と称して行くことができた。

『機関車やえもん』、『にんぎょ姫』、『80日間世界一周』など名作路線晩期の作品を観る機会に恵まれたが、後年、その当時の東映動画の長篇は古き良き時代をとうに過ぎ、低迷期にあったことを知ることになる。

いずれにしても、アニメーションは少年だった私に、笑いや感動、憧れを常に与え続けてくれた。まさにアニメを通して夢を育み、多くのことを学んできた少年時代だったと言える。そして高校時代、アニメを見る側から作る側へ関心が移っていくことになるのだ。

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