アニメな日本史
黎明期
1917(大正6)年〜1945(昭和20)年

日本最初のアニメは大正六(一九一七年に三つ子の赤ちゃんとして産声を上げた。下川凹天による『芋川椋三(いもかわむくぞう)玄関番の巻』、内純一による『塙凹内(はなわへこない)名刀』、北山清太郎による『猿蟹合戦』、これら三作品が日本初のアニメなのである。公開時期には若干のズレがあるものの、図らずも同じ年に公開が相次いだということで、三名ともに「日本初」という栄誉が贈られている。

当時、映画はすでに大衆娯楽として定着しており、海外のアニメ作品が『凸坊(でこぼう)新画帖』として人気を博していた。機が熟していたとも言えるだろうが時期全く交流のなかった三人が相次いでアニメを作ったという事実は不思議としか言いようがない。まさにアニメの神様が日本にGO!」を出したのだろう。

ところで、世界初のアニメと言われるのは一九〇六年、アメリカのジェームス・スチュアート・ブラックトンによる愉快な百面相である。日本産アニメ誕生のわずか十一年前である。翌年にはフランスのエミール・コールが『ファンタマゴリー』その二年後にはアメリカのウインザー・マッケイが『恐竜ガーティ』を発表している。日本人の三名も含めてこれらの作者たちは皆、漫画家、もしくは画家である。自分の描いた絵を動かしたい、自分の描いた絵に命を吹き込みたいというやむにやまれぬ思いからアニメは生まれたと言って良いだろう。私がアニメーターを志した理由もまさにそれであった。

映画史的に言えばアニメの技術は当初、コマ撮りを使ったトリック撮影のひとつに過ぎなかった。それがアニメーションというひとつのジャンルとして確立していったのだ。

さて、日本のアニメ創始者の一人、下川凹天は、日本初の漫画誌「東京パック」で活躍する売れっ子の漫画家であった。ちなみに名前の読みは漫画家としては「へこてん」、アニメ作家としては「おうてん」としていた。

海外の漫画映画が評判を呼んでいた中で国産初の漫画映画を企画していた映画会社、「天活」が放った白羽の矢を下川は意欲的に受け止めた。だからと言って下川がアニメ作りのノウハウを知っていたわけでは全くない。試行錯誤の末にたどりついたのが印刷された何枚もの背景の上にキャラクターを描くという方法だった。当然、そのままであればキャラクターに背景が透けて見えてしまうのだが、それを一枚一枚、白い絵の具で塗りつぶしていったのだ。このような大変な作業の末に完成した『芋川椋三玄関番の巻』は国産のアニメで最初の公開を勝ち得たパイオニア作品となった。

下川はその後も天活に在籍しアニメを作り続けるが、作画の際に透写台の強い光で目を痛めてしまい、一年余りの間に五本の作品を作ったところでリタイアをし、その後は漫画に専念することになる。日本アニメの創始者が皮肉にもアニメーターの職業病患者の第一号となってしまったのである。

もう一人の創始者、幸純一もまた「東京パック」で活躍していた漫画家で主に政治漫画や風刺漫画を描いていた。下川よりは六歳年長である。

幸内にアニメの制作を依頼したのは「小林商会」という映画会社だった。試行錯誤の末に完成させたのが『塙凹内名刀之巻』である。当時の映画雑誌の評でも高い評価を得ている。同年に二作品を作るが小林商会が資金難に陥ったため、幸内はアニメから一旦撤退することになる。数年後、自ら「スミカズ映画創作社」を設立し本格的な復帰を果たし、東京市長だった後藤新平を喧伝する『人気の焦点に立てる後藤新平』など政治家のPRアニメを制作した。その一方、作家としてのオリジナル作品にも意欲を示し昭和五(一九三〇)年にはレコード式トーキー作品『ちょん切れ蛙』を公開した。この作品を最後に幸内はアニメから手を引き漫画家に戻っている。

しかし、彼のもとでは後に千代紙アニメで世界に名を知られることになる大藤信郎が育っていた。

大藤は大正十五(一九二六)年に幸内のスタジオから独立して「自由映画研究所」を設立した。独立後、彼は千代紙を切り抜いて貼り付けることで、個性的かつ芸術的な作品を作る手法を編み出し『馬具田城の盗賊』『孫悟空物語』を立て続けに公開し注目を集めた。昭和二(一九二七)年には社名を「千代紙映画社」と改め『鯨』を制作。この作品は昭和二十七(一九五二)年にカラーセロファンを使った影絵アニメとしてリメイクされ、カンヌ映画祭の短編部門で第二位に入賞している。

大藤の名は日本で最も権威のあるアニメの賞に冠せられ「大藤賞」として昭和三十七(一九六二)年以降、多くのアニメ功労者を顕彰することになる。ちなみに、最初の受賞者は手塚治虫だった。

さて、もう一人の創始者、北山清太郎美術雑誌を発行する画家であった。北山は本業の傍ら海外のアニメに関心を持ち、その手法を研究していたのである。

そんな彼にアニメの制作を依頼したのは向島撮影所に漫画部を作った「日活」だった。北山は「恐竜ガーティ」と同じように、紙に背景とキャラクターを一緒に描くペーパーアニメの基本的な手法「推稿式(稿画式)」で『猿蟹合戦』を作り、幸内よりも一ヶ月早く公開している。その後も『花咲爺』『文福茶釜』など日本の昔話に題材をとった作品を制作する一方で政府からの依頼で貯金を奨励する宣伝アニメ『貯金の勤』『塵も積もれば山となる』なども作っている。

大正十(一九二一年に日本初のアニメスタジオ北山映画製作所を設立し切り紙によるアニメーション制作を開始した切り抜いたキャラクターを背景の上に置いて撮影するというセルアニメの原型とも言える画期的な方法で数多くの作品を世に送り出した。

この切り抜き法はセルアニメが導入されるまでの間、日本でのアニメ制作手法の主流となっている。キャラクターの輪郭線ぎりぎりの所をはさみで切っていくという神経と手間を使う大変な作業だが、日本人特有の器用さ故に成し遂げられた手法だと言える。なお、この手法を最初に行ったのが誰であるかは、はっきりしていない。ちなみに当時はまだ動画という言葉もなく、アニメは一般に「線画」と言われていた。

北山のスタジオは設立からわずか二年後、いよいよこれからという時に関東大震災で壊滅してしまい、彼もまたアニメから身を引くことになる

だが、ここにもまた後継者が生まれていた。後に東映動画の設立に深く関わる山本早苗と藪下泰司である。アニメーションは今に至るも徒弟制度的な師弟関係の中で技術の継承が行われている世界なのである。

北山映画製作所から独立した山本早苗(本名は善次郎)は大正十四(一九二五)年に山本漫画製作所を設立し『姥捨山』を制作した。その後は主に文部省からの依頼を受け教育宣伝アニメを多数制作している。山本早苗は戦後、東映動画の母体となる日動映画の社長となる人物である。

山本の幼なじみだった村田安司もまた大正十五(一九二六)年に自ら設立した「村田プロダクション」にて教育宣伝アニメを多数制作している。山本と幼馴染だったからと言ってアニメ作りのノウハウを教えてもらったわけではない。そのノウハウはあくまでも企業秘密だったのである。

自ら制作手法をつきとめて、後に「切り抜きアニメの名手」と言われるようになった村田だが、彼の功績は、アニメーターとして動きのタイミング技術を格段に進歩させたことである。おそらくは海外のアニメのフィルムを徹底的に分析したのであろう。先人の作品をコマ送りで分析して学ぶということは今も昔も変わらないアニメーターに求められる探求姿勢なのである。

それとは全く別の流れの中で、独学アニメを学び、昭和初期のアニメ界に新風を巻き起こした男がいる。政岡憲三(右写真)である。

政岡は、日活の援助を受けて昭和六(一九三一)年、第一作目となる『難船ス物語』を制作。これは「ナンセンス」をもじったタイトルである。その翌年には京都に「政岡映画製作所」を設立し日本初の本格的トーキーアニメ『力と女の世の中』を制作した。この作品は全面的にセルを使用した日本で最初の作品でもある。いよいよ日本のアニメ業界に役者が揃うとともに、セルアニメの時代が到来したのだ。

セルアニメは透明なセルロイドに描いたキャラクターを背景に重ね合わせて撮影するという手法で一九一四(大正三)年にアメリカのアール・ハードとジョン・R・ブレイが開発したものである。それからわずか三年後に日本でも使われるようになったことは驚きだ。当時セルロイドは高価だったため、一度使ったセルロイドは水洗いで絵を落として何度も使ったそうだ。私自身、スタジオカーペンターの社長だった大工原章氏の思い出ばなしとして、政岡憲三のスタジオで『すて猫トラちゃん』のシリーズを作っている頃に何度もセルを水洗いしたという体験談を聞いている。

岡は戦時中昭和(一九四三)年、私財を投げ打ってくもとちゅうりっぷ』(左写真)という詩情豊かな作品を制作した。セルアニメの手法の特性を遺憾なく発揮した傑作である。

てんとう虫の女の子をチンピラの蜘蛛が言葉巧みに誘惑し、最後には暴力で捕まえようとする。チューリップがてんとう虫を自らの花の中にかくまうが蜘蛛はチューリップの花を自分の糸でぐるぐる巻きにして勝ち誇る。しかし蜘蛛は折からの暴風雨に翻弄され最後には飛ばされてしまう。嵐が去ったあと花から出てきたてんとう虫はチューリップに感謝し喜びの歌を歌う、という内容である。

『くもとちゅうりっぷ』は平和を願う情緒的な作品だったため、軍部政府からは戦時下に好ましくない非国民的な作品として上映中止命令が出た。政岡は心底、無念だっただろうと思う。しかし、これこそ日本のアニメ製作者が原点とすべき姿勢であり、日本のアニメが世界に向けて発信すべきテーマを持った作品だと言える。それゆえに『くもとちゅうりっぷ』は日本アニメ史にあって燦然と輝きを放ち、その歴史を紐解く際には絶対に無視のできない作品となっているのである。

政岡の下でアニメを学んだ瀬尾光世は『くもとちゅうりっぷ』が完成したのと同じ昭和十八年、皮肉にも海軍の依頼を受けて制作した日本初の長編漫画映画『桃太郎の海鷲』(右写真)を公開。続いて終戦となる昭和二十(一九四五)年には同じく戦意高揚アニメ『桃太郎 海の神兵』を公開しているアニメとしては当時の技術の粋を結集した傑作である。しかし、敗戦直前の当時の日本には映画館に足を運べる人はほとんどいなかった。

そのような状況下にあっても映画館に駆けつけた十六才の少年がいた。手塚治虫である。彼はこの作品を見て「日本でもこれほどのアニメが作れるのか」と感激し、「いつか自分も必ずアニメを作ってみせる」との決意を固めたと自ら証言している。

戦時下において軍の依頼で戦意高揚アニメの制作に従事した人々を批難することは誰にもできない。ディズニーもまたアメリカで数多くの戦意高揚アニメを作っている。いずれにしても、ここで力をつけた多くのアニメーターたちが戦後の日本アニメ史を綴り、今日の礎を築いていくことになるのだ

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