アニメな日本史
成長期
1963(昭和38)年〜1977(昭和52)年

虫プロは『ある街角の物語』の制作途中に別班を設け前代未聞の企画を水面下で進めていった。テレビアニメの制作である。そしてついに昭和三十八(一九六三年、『鉄腕アトム』(右写真)の放映をスタートさせた。週に一本のアニメを制作するという当時の常識では考えられなかった偉業(?)を成し遂げたのである。

動画枚数を当時の常識では考えられないほど少なく抑え、演出とストーリーで見せるリミテッドアニメに徹し、一度使ったセルを別の話数でも使い回すバンクシステムのもとで徹底した合理化を図ったのだ。

手塚がもし漫画家ではなくアニメーターだったら、このようなアニメーターの魂やプライドを捨てるようなシステムは打ち立てなかっただろうと私は思う。そして、もしもこの時、手塚がテレビアニメを始めなければ、テレビアニメの歴史のスタートは、数年は遅れていたかもしれない。

しかし歴史には「もしも」などありはしない。そんな虫プロの屋台骨を支えたのは東映動画から移籍してきた杉井ギサブローや坂本雄作力あるメンバーだった。その後、彼らの指導のもとで次の時代を切り開いていく虫プロ出身の人材が多く生まれている。杉野昭夫や出崎統、金山明博や石黒昇、富野由悠季やりんたろう等である。

手塚は他社がテレビアニメに参入できないよう『鉄腕アトム』の受注額を赤字覚悟の五十五万円で容認したと言われているが、テレビアニメ時代の幕開けは手塚の意に反して一気にやってきた。テレビCM会社のTCJが同年『鉄人28号』を、東映動画が『狼少年ケン』(左写真)を放映開始した。カラーテレビの普及にともない昭和四十(一九六五年、虫プロによる初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』が誕生した

この作品のオープニングは富田勲の壮大な音楽にのせてアフリカの雄大な自然をアニメで描いた見事なもので当時のテレビアニメのレベルを遥かに超えていた。特にフラミンゴの大群が飛び立つシーンは東映動画出身で「鳥の勝井」と呼ばれていた勝井千賀雄の作画によるもので絶賛に値する。このシーンはテレビアニメでありながら、充分、ディズニー作品にも匹敵するものだ。粗製乱造が目立ったテレビアニメの草創期にあって、東映動画出身者の意地とプライドを見る思いがする。

同年、モノクロではあるが藤子不二雄原作の『オバケのQ太郎』が放映された。通称『オバQ』は、アトムを凌いで平均視聴率三十%台の人気番組になった。その翌年には赤塚不二夫原作の『おそ松くん』が放映され、それまでのSFものや冒険ものに加えてギャグものの路線が敷かれることになる。

私も含め、当時の小さな子供たちには漫画雑誌など買えるはずもなく、私などは、漫画というものは床屋さんに行って読むものだと思っていた時代である。そんな時代にテレビをつけチャンネルを回すだけで楽しいアニメが見られるのだから夢中にならない訳がなかった。

日本のアニメがなかった時代、そしてまだ少なかった時代に子供たちの目を楽しませていたのはアメリカのアニメだった。主だったタイトルを挙げておきたい。

オリンポスの神殿に住み悪を退治したあと「オリンピアー」と叫びながら去っていくヒーロー『マイティハーキュリー』。

ガールフレンドのパールが助けを呼ぶとすぐに飛んでくる、小さな体に爆発的な力を秘めたスーパーマンのねずみ版『マイティマウス』。

ピンチに陥ったチャックとナンシーが対の指輪を合わせて、「出て来いシャザーン」と呼びかけると、「ハイハイーサー、ご主人様」とアラビアの大魔王が現れ「アパラパー」という魔法の呪文で悪を退治する『大魔王シャザーン』(左写真)

 普段は3人組のグループサウンズだが実は超能力を持った諜報部員。分身の術を持つバラバラのマイト、体がバネになるボヨヨンのコイル、体が液状化するスイスイのフリー、三人が陽気に悪を倒す『スーパースリー』。

猿と双子の少年少女をお供に、腕に装備したUバンドという武器からビームを発射して次から次に現れる宇宙の悪者をやっつける『宇宙怪人ゴースト』。

毎回のカーレースで人の邪魔をすることで墓穴を掘り、いつも結果的に負けてしまうブラック魔王とケンケンを中心とした『チキチキマシン猛レース』。

ブル巡査部長やヤマダ警部、ゴメス警部を率いて事件を解決する沈着冷静な『ディックトレーシー』。

典型的な猫と鼠のおっかけギャグ。おそらくは日本で一番有名なアメリカアニメ『トムとジェリー』(右写真)

缶詰のほうれん草を食べて強くなり、恋人のオリーブにつきまとうブルートをやっつける『ポパイ』。

飄々としたカササギの悪友コンビ『ヘッケルとジャッケル』。

愉快なドラ猫たちのチームリーダー『ドラ猫大将』。

陽気でおとぼけの熊『クマゴロー』。

孤独な少年の幽霊『おばけのキャスパー』。

冒険好きでパワフルな猫『飛び出せフィリックス』。

何でもつついてしまうキツツキ『ウッドペッカー』。

かなりのワルだが憎めない兎『バックスバニー』。

ビーッビーッと鳴きながら疾走するするロードランナーという怪鳥を捕まえようとするが、いつも自分が仕掛けた罠にかかってしまうワイリーコヨーテの悲劇『ロードランナー』。

まだまだあるがこのぐらいにしておこうと思う。私も含めて子供時代にアメリカアニメの洗礼を受けた世代が深層心理的に何かを心に宿されたことは間違いないと思う。しかしまあ、そのような研究をする人は、まずいないだろう。

さて、テレビアニメの普及によって劇場アニメの人気に陰りが出てくることになるのだが、その前夜ともいう時期、東映動画は昭和三十六(一九六一年、『安寿と厨子王丸』(左写真)、翌昭和三十七(一九六二)年、『アラビアンナイト シンドバットの冒険』、その翌年、つまりテレビアニメ時代に入った昭和三十八(一九六三、東映動画は劇場作品に作画監督制度を導入し、三月には森康二作画監督の『わんぱく王子の大蛇(おろち)退治』、同年十二月には大工原章作画監督の『わんわん忠臣蔵』公開した

私としては『わんぱく王子の大蛇退治』までの期間を東映動画の黄金期と名付けたい。

昭和三十三(一九五八)年の『白蛇伝』から昭和五十二(一九八七)年の『金の鳥』まで続いた東映動画の名作長編路線だが、黄金期以降、私の中で傑作と言えるのは『太陽の王子ホルスの大冒険』『長靴をはいた猫』『どうぶつ宝島』『龍の子太郎』の四本のみである。最後の作品である『金の鳥』も大変良くできており傑作のひとつに挙げたいところなのだが、悲しいことに実質上これは、別会社のマッドハウスに丸投げした作品なのである。

ところで、黄金期最後の作品である『わんぱく王子の大蛇退治』(右写真)は異色の傑作である。森康二による埴輪をモチーフにしたキャラクターデザインは洗練の極致と言える。またこの作品は作画監督システムを全面的に取り入れた最初の作品であり、森康二のもとでデザインや絵柄がしっかりと統一されるとともに、実力あるアニメーターがその得意とする分野のシーンを担当することで見ごたえのあるアクションと演技に満ちた魅力ある作品に仕上がっている。

黄金期と言ってもそれまでの作品が黄金に値する作品群だったというわけではない。日本を代表するアニメ会社として燦然と輝きを放っていたという意味での黄金期なのである。『安寿と厨子王丸』などは会社側から押し付けられたリアリズムに現場が仕方なく従ったというような証言が残っている。

テレビアニメ制作のあおりで東映動画の長編制作は一時中断するが、昭和四十(一九六五年には『ガリバーの宇宙旅行』、昭和四十二(一九六七年に『少年ジャックと魔法使い』、昭和四十三(一九六八年には『アンデルセン物語』が公開されている。さらに、この頃から『サイボーグ009』など、B作長編と呼ばれるテレビアニメの焼き直し程度の作品が作られるようになる。高い予算と時間をかけて良質な長編を作るよりも低予算で子供受けするかっこいいアニメを作った方が儲かることに経営陣が気づいてしまったのである。人気のあるテレビ番組の番外編を作るくらいならば許せるが、テレビで放映したそのものを上映する暴挙まで行われるようになった。

そんな厳しい環境の中で東映動画の労組が長い闘争の末、時間と予算を勝ち取って作り上げたのが昭和四十三(一九六八年公開、高畑勲監督、大塚康生作画監督の『太陽の王子ホルスの大冒険』(左写真)ったこれはセルのトレースを機械化した最初の作品である。また、若き高畑勲が始めて長編の監督に取り組んだ作品であり、かつまた、宮崎駿が才能を本格的に発揮し、制作の中枢に入り始めた作品でもある。後世に残る傑作となった複雑な心理描写に小さな子供たちはついていけず興行的には大失敗の赤字作品となってしまった。多くのスタッフが減俸や降格の処分を受ける結果となった。労組が経営者と戦いながら作った作品だけに内容的にも労使間の争いを暗示させるものがあって興味深い。

その余勢で翌昭和四十四(一九六九年の森康二が作画監督を務める『長靴をはいた猫』(左写真)が作られた。この作品は東映動画の看板作品となり主人公ぺロ顔は現在、会社のシンボルマークになっている。猫をシンボルマークにするに際して、ディズニーのあのねずみキャラを意識したかどうかは定かではない。

 昭和四十五(一九七〇年には石森章太郎に原作を求めて作られた『空飛ぶゆうれい船』、翌昭和四十六(一九七一年には森康二作画監督による『どうぶつ宝島』が公開された。『どうぶつ宝島』を最後に東映動画の長編は精彩を失っていくことになる。『ホルス』以降、会社が長編に十分な予算を割かなくなり、高畑勲、大塚康生、小田部羊一、宮崎駿、森康二、テレビアニメ『風のふじ丸』の楠部大吉郎など主要スタッフが東映動画を見切って順次抜けていったからである。

唯一の例外は昭和五十四(一九七九)年の『龍の子太郎』(右写真)である。すばらしい作品だが、当時、外で活躍していた小田部羊一に作画監督を依頼し、監督には実写の浦山桐郎を迎えて作ったことを考えると東映動画の純粋な作品とは言いがたいものがある。小田部羊一は自分が仕事を受ける条件として監督を高畑勲にすることを強く求めたが経営陣には高畑との確執があり叶えられなかった。

テレビアニメの世界では六十年代末に『巨人の星』『サイボーグ009』『サスケ』『忍風カムイ外伝』『タイガーマスク』『ハクション大魔王』『ムーミン』『アタックbP』など、今なお語り継がれる作品が数多く作られている。最長寿番組『サザエさん』や何度もシリーズ化されている『ゲゲゲの鬼太郎』もこの時期の作品である。アニメ業界が午前八時の太陽の如く、旭日の勢いで昇り始めた時期だったと言える。

この時期はセルへの描線の転写がハンドトレースからマシントレースに切り替わった時期でもあり『タイガーマスク』や『マジンガーZ』など、敢えて鉛筆の荒々しいタッチを活かした作品も見受けられたが、その後に続くことはなかった。

さて、東映動画を飛び出した人材たちは、当時すでに隆盛を極め始めていたテレビアニメの世界で主に活躍することになる。

高畑、宮崎、大塚、小田部らは昭和四十七(一九七二年にプロにて劇場中篇作品『パンダコパンダ』(左写真)を作り東映動画以外の場所でアニメ史に名作を残し始める。

一九七〇年代初頭までの主だったアニメ制作会社は、東映動画、虫プロ、タツノコプロ、東京ムービーの四社と言ってよいが、このころから新興勢力が続々と登場し始める。

日曜七時半のズイヨー映像による『名作劇場で森康二は『山ねずみロッキーチャック』の作画監督を務めながら後進の育成に着手していった。

高畑、小田部、宮崎のトリオは『アルプスの少女ハイジ』、『母をたずねて三千里』(右写真)などのテレビアニメ史に燦然と輝く名作を作りその後、長年にわたって続くことになる『名作劇場の土台を築いた。新興のアニメスタジオだった日本アニメーションはこのシリーズを通してその名の通り日本を代表するアニメ制作会社のひとつに成長していった

名作劇場は、昭和四十九(一九七四)年の『アルプスの少女ハイジ』から平成九(一九九七)年の『家なき子レミ』まで二十四作品が放映された。ただし『アルプスの少女ハイジ』は日本アニメーションの公式ではズイヨー映像の制作なので含まれず、『家なき子レミ』終了後十年弱の間をおいて二〇〇七年に始まった『レ・ミゼラブル少女コゼット』は名作劇場の流れとされている。

ところで、日本アニメーションはズイヨー映像内の内紛を機に、社長以外のすべてのスタッフが決別して作った会社であり、実質上、社名変更をしたにすぎないようなものだが、いまでもズイヨー映像は社名を変えて存在している。

名作劇場の二十三年という期間は親子二世代に渡る期間である。健気に生きる少女を誰もが応援した『ペリーヌ物語』、高畑演出がさえていた『赤毛のアン』、いじめからの脱却に皆が拍手を送った『小公女セーラ』、主題歌が異色で良かった『七つの海のティコ』、物語の展開に目が話せなかった『ロミオの青い空』(左写真)。誰もが自分のお気に入り作品を持っているだろう。個人的には名作劇場後期、関修一がキャラクターデザインを務めた『私のあしながおじさん』や『トラップ一家物語』などの作品を絵的には気に入っている。

当時、私の妻は日本アニメーションの外注スタッフとして名作劇場の動画を描いていた。三十枚程度の動画が即日回収されるので、大変な時には私も人知れず手伝ったものだ。夜、私が疲れて帰宅すると妻が動画を描いている。妻の足にはまだオムツをつけた息子が泣きながらまとわりついている。妻は足を揺らしてあやしながら動画を描き続けている。手伝わない訳にはいかないだろう。歴史には残っていないが私もまた名作劇場のスタッフなのである。

ちなみに『母をたずねて三千里』を見てアニメーターになる決意を固めた私だが、この項を執筆するに当たってあらためてこの作品の第一話を見て驚いた。高畑勲の緻密にして大胆かつドラマティックな演出、宮崎駿の映画的で巧妙なレイアウト、作画陣のまさに絵に魂を吹き込んだとも言える生き生きとしたアニメート。制作に先立って、海外ロケまで行われた作品でありスタッフの意気込みがひしひしと伝わってくる作品である。三十年以上も前に名作映画にも匹敵する子供向けのテレビアニメが作られていたことに日本アニメ界の底力を実感した。

楠部大吉郎が率いるプロは,昭和五十一(一九七六年に東京ムービーから独立しシンエイ動画を設立し今に至る『ドラえもん』や『クレヨンしんちゃん』など映画シリーズとしても定着した長寿番組が経営面をしっかりと支えている

一九七〇年代、テレビにおいては『マジンガー』に始まる巨大ロボットものが東映動画を中心に続々と作られていったが勧善懲悪主義のロボットものは次第にマンネリに陥っていって関連玩具も売れなくなっていった。ロボットものに新たな展開をもたらしたのは昭和五十四(一九七九年に始まった日本サンライズ(現・サンライズ)の『機動戦士ガンダム』だろう。重厚なストーリーが大人にまでファン層を広げ、モビルスーツと呼ばれる新しいロボットデザインがプラモデルの大ヒットにつながり「ガンプラ」という言葉まで生み出した。『ガンダム』はシリーズ化して今に至っている。ロボットを操縦するのでも乗り込むのでもなく、モビルスーツとして着てしまうという発想は斬新だった。それから二十年後『エヴァンゲリオン』では、ロボットとの同化にまで進化することになる。

一方で着実に良質な作品を作ってきたタツノコプロの台頭も目覚しく一九七〇年代には『科学忍者隊ガッチャマン』(右写真)、『新造人間キャシャーン』、『破裏拳ポリマー』、『宇宙の騎士テッカマン』、『タイムボカン(シリーズ)』など、立て続けにヒットを飛ばしていき、人材の流れはその後、押井アニメやプロダクションIGなどへと繋がっていった。

『魔法使いサリー』から端を発する魔法少女ものもこの頃にはジャンルとして確立し今に至っている。昭和四十八(一九七三年の『キューティーハニー』は『美少女戦士セーラームーン』や『ふたりはプリキュア』など一世を風靡する作品繋がる少女戦士もののはしりと言っていいだろう。

東映動画の長編が輝きを失い、宮崎アニメが登場するまでの十年間、一九七〇年代の劇場作品で評判になったものと言えば『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』など、テレビアニメの焼き直し作品群であり、一九七〇年代まさに長編不作の時代と言える

この間に、隆盛を極めていた虫プロダクションは出版部門の虫プロ商事の倒産のあおりを受け、次第に経営が悪化。そのような状況の中、劇場作品『哀しみのベラドンナ』が興行的に失敗したことが決定打となり、テレビアニメ『ワンサくん』終了直後、昭和四十八(一九七三)年に千万円の負債を抱えて倒産している

『哀しみのベラドンナ』は前衛的な芸術アニメであり、『ワンサくん』(右写真)はテレビアニメで唯一のミュージカルアニメである。最後の最後までパイオニア精神を失わなかった虫プロには敬意を表したい。

その後、虫プロ出身の営業系の人たちによって「サンライズ」が作られ、制作系の人たちによって「マッドハウス」が作られた。また、音響系の人たちによって「グループタック」が作られ、虫プロの血脈はそれぞれの個性を持ちながらも今に続いている。

現在の虫プロダクションは、旧労組が花火やカレンダーを売りながら苦しい時期を凌ぎ、倒産から四年後に再建したスタジオである。旧虫プロ作品の著作権が譲渡されその管理なども行っているが、別会社と考えた方がよい。また、手塚プロダクションは漫画のプロダクションとしてスタートし、手塚の死後はアニメの制作が主な業務となっているが、虫プロとの直接的な関係はない。

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